三河武士の鑑 鳥居元忠、伏見城に散る【葵 徳川三代】

三河武士の鑑 鳥居元忠、伏見城に散る【葵 徳川三代】



鳥居元忠を討ち取った雑賀孫一は一般的に有名な「鈴木重秀」ではなく、その息子とされる「鈴木重朝」です。

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  1. 島津軍が鳥居元忠と共に伏見城を守っていたにしても落城は免れなかったと言われるが 少数で大軍を打ち負かした島津軍が守備側に付けば西軍も無傷では済まず伏見は守りきり ①佐和山落城が早まる
    ②島津軍と共に鳥居元忠が関ヶ原本戦に現れ三成を後方から奇襲する
    ③大阪にいる毛利輝元が本戦に参加するため大阪城を出て 島津鳥居連合軍と激突し 

    おそらくはそこで島津義弘、豊久 鳥居元忠は戦死するが毛利輝元も討ち死にまたは深傷を負わされる。結果毛利家はお取り潰し 島津家は功臣として優遇され幕末も幕府方で戦う 関ヶ原後毛利征伐となり 今日日の山口県毛利藩の隆盛はなかった

  2. 家康の側室達に穏やかに指示を出すシーンと鬼島津に啖呵を切るシーンの落差に燃える。
    島津義弘と鳥居元忠のバチバチのアイコンタクトに場所は違えど激戦をくぐり抜けた武者同士の気持ちのつながりを感じる名シーン。

  3. 1:48 島津軍の代表として交渉しているのは新納旅庵。庶子であった為に僧籍に入って若き日には諸国を放浪していたがその才を惜しんだ島津義久から再三誘いを受けて還俗し義久に代わって当主となった義弘付の家老となる。豊臣政権下では島津家のスポークスマンとして外交で活躍。関ヶ原の敵中突破後に義弘一行とはぐれ鞍馬に潜伏していたが捕縛。家康から義弘、忠恒親子の恭順上洛を説得する様に要請され解放。薩摩帰国後は和平に奔走。島津家の本領安堵を勝ち獲った。

  4. 結果的にこの行き違いが幕末に繋がるとはこの時誰が想像できただろうか。
    一方でこの行き違いが島津の所領安堵に繋がった(勿論色々当時の状況もあるが)とも言える。

  5. 嶋津家は昔からしたたかで腹黒い。実際少数で入城して伏見城を落とすつもりだったが、鳥居元忠の機転でそれを防ぐ事ができた

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