【古都鎌倉】鶴岡八幡宮 鎌倉始まりの地 Tsurugaoka Hachimangu KAMAKURA

【古都鎌倉】鶴岡八幡宮 鎌倉始まりの地 Tsurugaoka Hachimangu KAMAKURA



鶴岡八幡宮 由比若宮社
由比若宮社は、相模守であった源頼義が「前九年の役」で奥州の豪族・安倍氏との戦いに臨むに当たり、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮に戦勝祈願を行います。奥州平定した翌年に報賽の意を込め、由比の地(材木座)に京都・石清水八幡宮を勧請し祀りました。それが、由比若宮の始まりです。
その後、源頼朝が鎌倉入りの際に最初に参拝した神社として、この場所を非常に重要視しました。その後、現在の雪ノ下に鶴岡八幡宮を建立します。
八幡宮が現在の場所に遷った後も鶴岡八幡宮という名前がそのまま引き継がれたため、それ以後はここを元八幡というようになりました。元八幡は都市としての鎌倉がここから出発したということを示す貴重な神社です。
由比若宮は、住宅地の中にひっそりと佇む静かな神社です。そのため材木座周辺以外の方は地元でも知らない方が多いようです。
広大な敷地や壮麗な社殿はありませんが、その控えめな佇まいこそが訪れる人の心を和ませます。境内にある石清水ノ井(いわしみずのい)は、創建当初、神を迎えるための井戸で、今でも清らかな水をたたえています。

旗上弁財天社
鶴岡八幡宮の境内にある旗上弁財天社は源氏池の上にあります。
源頼朝により、弦巻田と呼ばれていた水田を池にしたのが始まりで、太鼓橋を挟んで右側が「源氏池」、左側が「平家池」です。
源氏池には「白蓮」が、平家池には「紅蓮」が咲いていましたが、現在は紅白咲き乱れています。
白蓮は源氏の白旗、紅蓮は平家の赤旗にちなんで植えられていました。
何故、夏の鎌倉が魅力かというと鶴岡八幡宮の蓮の見頃は、7月下旬から8月下旬頃なのです。
蓮は午前中に開花し、午後には閉じてしまいますので行かれる方は早い時間に行くといいです。
旗上弁財天社には白旗がたくさん掲げてあります。白旗は源氏の印、平家は赤旗。
承久の乱の際に、北条政子が御家人をここに集めて旗上げして戦勝祈願を行ったことから、旗上辨財天社となりました。
最初の弁財天は、源頼朝が若宮大路を造営する際、琵琶小路にあった祠に安置されていた弁財天を移したものと伝えられています。
不思議なことに旗上弁財天社の境内では白ハトが多く見られます。藤棚は白藤と徹底した白へのこだわりが感じられるところです。
また、鎌倉江の島七福神の一つです。古来より弁財天信仰の中心地である江島神社と、源頼朝・北条政子ゆかりで鎌倉の歴史に欠かせない鶴岡八幡宮の旗上弁財天社の両方に弁財天が祀られており、通常の七福神巡りが7ヶ所であるのに対し、8つの社寺で構成されている点が特徴です。

舞殿(下拝殿)
静御前は、京の白拍子。
白拍子は歌いながら男装で舞う女性のことです。
後白河法皇は、神泉苑に白拍子を100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせました。
99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだといいます。
このとき、舞を見ていた源義経に気に入られ側室となります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、平家追討に武勲のあった弟義経と不仲になり、義経追討の兵をあげます。義経は京の白拍子(静)とともに、武蔵坊弁慶と、わずかな手兵をつれて吉野山に逃れました。
頼朝側の追手が迫る中、義経一行は東国に向うことにして、静には金銀を持たせ、供の者をつけて京都へ送らせました。
ところが、途中で供の者たちに金銀を奪われ、山の中に置き去りにされた静は捕らえられてしまいます。その後、鎌倉の頼朝のもとへ送られ、義経の行方を厳しく問われますが、静は答えません。
頼朝とその妻政子は、舞いの妙手として京で名高い白拍子(静)の舞いを見たいと、静に鶴岡八幡宮での舞いを求めます。病気を理由にその申し出を断っていた静も、熱心な求めに観念し、ついに舞の舞台に上ります。その舞台で静はこのように詠い、舞いました。
〈しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな〉
解釈:「静、静」と繰り返し私の名を呼んだあの人が輝かしかった頃にまた戻りたい。

その艶やかな美しさは、観ていた幕府の者たちを感動させましたが、頼朝は「自分に逆らう義経を恋い慕う歌を詠い舞うとは不届きだ」と激しく怒ります。それを見た政子は、かつて自分が頼朝を思い慕った日々の女としての苦しさ、悲しさを教え諭して、頼朝の怒りをなだめます。
処分を免れた静は、市内の片隅に住居を与えられ、お腹に宿していた義経の子である男の子を産みましたが、「男子を生かしておいては将来に禍根を残す」と、幕府はその子を取り上げて由比ガ浜の海に沈めてしまいます。傷心の静は京に帰されますが、それ以来静の消息は途絶えました。
静御前のこの悲しい物語は、以後も人々の胸に残り、語りつがれ、謡曲や浄瑠璃にも綴られ、現代に残されています。
静御前が舞ったときにはまだ舞殿が無かった時なので、正解は若宮の回廊で舞ったということになりますが、回廊は今の舞殿の位置にありました。

今宮(新宮)
鎌倉幕府にとっては宿敵中の宿敵ともいえる後鳥羽上皇が、鶴岡八幡宮の境内にお祀りされているのはあまり知られていないようです。
記憶に新しい方もいらっしゃると思いますが、鎌倉殿の13人で尾上松也が見事な演技をされていました。
承久の乱では、鎌倉幕府の執権であった北条義時に討伐の兵を上げました。しかし、朝廷側は北条氏に敗れて隠岐に配流され、1239年に隠岐から戻ることなく崩御しました。
承久の乱に敗れ、京都を去る時に詠んだと言われる唄があります。
人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに もの思ふ身は
※小倉百人一首 第99番 後鳥羽院
つくづく人間が愛しい反面、これほど恨めしいものもない。天下を憂えるがゆえにやり切れぬこの思いをどうしたらよいものか。

その年は日本全国で疫病や飢饉、抗争が絶えなかったため、怒りを鎮めるために創建されたのが今宮(新宮)です。
後鳥羽上皇のほか土御門院(つちみかどいん。第83代・第一皇子)、順徳院(じゅんとくいん。第84代・第三皇子)も合祀されています。
ちなみに順徳院の唄は第100番です。
今宮(新宮)は鶴岡八幡宮を一旦出て北鎌倉に抜ける道にあります。住宅街の行き止まりに建ちますので知らない方も多いです。
静寂に包まれた森に映える白木が美しく凛とした佇まいは訪れる価値があります。
八幡様へお参りの際は、お時間が許すならちょっと足をのばして今宮(新宮)へもお参りしてみてはいかがでしょう。
さて、今回は鶴岡八幡宮を少し違う角度から紹介しました。広大な敷地の八幡様には多くの摂末社があります。これから鎌倉は更に良い気候になっていきます。

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