安居神社⛩️
安居神社(やすいじんじゃ)は、大阪市天王寺区にある神社。旧社格は村社。安居天満宮、安井神社ともいう。真田信繁が討死した地である。
主祭神
少彦名神
菅原道真
社格等
旧村社
創建
不詳(飛鳥時代か)
別名
安井神社(届出上)、安居天満宮(別称)
大丸天神(通称)
例祭
春大祭(4月25日)
幸村祭(5月7日)
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息(安井)をとったためにその名がついたという伝承がある。
また、四天王寺の僧が当社で夏安居を行っていたので安居となったともいう。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の時、当社で真田信繁が討死している。
江戸時代、大丸の創業者である下村彦右衛門正啓がよく信仰していたことから「大丸天神」と称されることがある。
明治時代になると村社に列せられている。
1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲により全焼するが、戦後に復興した。
明治時代に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺七名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。
境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしがよく、遊客も多かったという。
摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。
境内
本殿
拝殿
稲荷神社
金山彦神社
社務所
安居の清水(かんしずめの井)の跡 – 天王寺七名水のひとつ。
真田信繁像
真田幸村戦死跡之碑
さなだ松(2代目)
現地情報
神職は常住していない。参拝は7時 – 16時の間可能となっており、時間外は門が閉鎖されて境内に立ち入ることが出来ない。
所在地
大阪府大阪市天王寺区逢阪1-3-24
交通アクセス
最寄駅:大阪メトロ谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅下車後、徒歩約6分
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になることもあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。家系は源氏(清和源氏海野流)
大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、死を厭わない決死の魂で本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とも評され、日本の国民的ヒーローともされている。
後世に軍記物、講談、草双紙(絵本)などが多数創作され、更に明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、甲賀忍者である猿飛佐助を筆頭とした真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」であって「幸村」ではないことが明らかになっている。
その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは全く無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている[信繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる。
また、「幸村」と署名した文書の写しが2通伝わるが(正本は伝わらず)、いずれも偽文書と判明している。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であると言われる『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村、との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。
かなり時代は降るが馬場政常『滋野通記』という史書では、兄・信之が生前、近習に「信繁は高野山に入った際、幸村に改名したと聞いている」と語ったという話も載せられていた。
「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字である。また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。
そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既に、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しいと書き記したほどである。
時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。
松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる。
大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
真田十勇士という言葉は『常山紀談』の山中鹿之助を筆頭とする「尼子十勇士」からヒントを得て用いられたものであり、前述の『真田三代記』にある7人の影武者の話をモデルにしている。
講談では、当初は三勇士で、それが七勇士になって、十勇士が勢揃いするという経緯がある。主に挙がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。ただし、作品によって若干ばらつきが見られる。
歴史に疎い私でも知ってるスーパーヒーローですよね❤漫画の歴史書にもなっている方ですし、実写でのTV放送にもなっていましたね(o^^o)
真田十勇士でとても美男子でしかも勇敢な方だったようで女性のファンもたくさんおられると思います❤
私は猿飛佐助様も好きでした🩷
「日の本一」と敵方から称賛された幸村。紀伊に幽閉されていたときの兄への酒の差し入れのお願いの手紙が、ふつうのオヤジぽく、個人的には美化された幸村より好感がもてました