NHK大河ドラマ豊臣兄弟!また歴史改変か第41回「徳川家康の野望」で描かれた秀長(仲野太賀)と家康(松下洸平)の酒席の会話から最終決戦「大坂の陣」茶々と秀頼の最期へと繋がる壮大な伏線について徹底考察します!家康は本当に大坂城を南側から攻めていた!
「大坂城を攻めるとしたらどこを攻めればよい」
「南側にござりまする」
徳川家康の企てた豊臣秀長が残した「罠」と真田幸村が築いた「真田丸」そして家康の執念までを史実とドラマの描写を交えてわかりやすく検証・解説していきます!
最終回第48回でこの伏線が回収されるのか?(実際の放送は47回が最終回です)
▼【動画出演者】
大河ファン歴史ドラマ研究所
解説員: 松下里穂
▼【チャンネル情報】
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▼【参考資料・出典引用】
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』公式サイト
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』放送映像より
NHK出版「大河ドラマ『豊臣兄弟!』ガイド 全編 後編 完結編
産経新聞出版「豊臣兄弟! 完全読本」
東京ニュース通信社「豊臣兄弟! THE BOOK」1、2
黒田基樹:羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで
NHK大河ドラマ豊臣兄弟より
NHK大河ドラマ真田丸より
Wikipedia
Audiostock
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#豊臣兄弟 #大河ドラマ #ネタバレ #歴史解説 #徳川家康 #豊臣秀吉 #真田丸 #大阪の陣
参考になりました
これは面白いですね!歴史の勉強になりました
松下研究員素敵ですね!応援しています
最終話が、大阪冬の陣、夏の陣の両戦の話をする予定ですか。そんな場面幾度となく映像化され、
日本人として誰しもが知れ渡っている戦より、それより皆があまり知られていない朝鮮出兵の時の内容の
話をやればいいのにね。大陸に渡っていった戦国オールスターの活躍が見事で、もっと評価されるべきではないだろうか?
その歴史が封印されています、残念😢
最終回にその伏線を語られるかもですね😊
真田信繁はこのドラマに登場するのかも知らないので😅
え?秀長がなくなった後の話やるの?
茶々様得意の弓🏹で応戦か?😮
わざわざ秀長が「大坂城の弱点は南から攻められること」と言ったのは何か後の伏線がありそうですね。当時の大坂城の様子をシミュレーション動画で見るとわかりやすいですね。
大坂冬の陣では徳川家康の本陣は茶臼山(天王寺動物園の北の小高い丘)に置き、夏の陣では城を出ての野戦になり、真田幸村が逆に茶臼山に本陣を置きました。この時の家康の本陣は最初、平野(ヒラノ)辺りにあり、茶臼山方向に軍を進めるうちに美章園(ビショウエン)辺りで、真田幸村の急襲を受け、逃げ回り一心寺辺りで討ち取られそうになるけれども。松平忠直軍の加勢により真田軍と混戦になり、幸村は安居寺辺りで休んでいたところを討たれたとのこと。一方、南宗寺の沢庵和尚の記録では家康は
「(家康公が)大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ、駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の槍(やり)に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」
とのことで、この時討たれたという説もあります。後の1623年、秀忠、家光が将軍宣下の上洛の際、京の南明院(朝日姫の墓)に墓参した後、わざわざ堺の南宗寺を訪れた記録があります。本当に家康が討たれたのか、影武者が討たれたのか定かではないですが、いろいろな憶測を呼んでいるようです。ただ、家康がこの時亡くなったとしても、貞観政要による徳川幕府による自動統治システムが働き、御三家と大奥による世継ぎシステム、諸大名の配置、 諫言(カンゲン)を奨励する合議制とブレーン政治などが働き、250年平和な時代が続くことになる。
最初の大坂冬の陣で大坂城北方の備前島(ビゼンジマ)より川越しに徳川が砲撃に使用した大砲は大型のカルバリン砲4門で、1600年春に豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)の黒島沖に漂着し、その後、家康の家臣となったウィリアムアダムス(三浦按針)により手配されました。射程が約6.3kmと当時突出していて、このうち1門が戦後、高取藩に下賜され、幕末まで大切に保管されていたとのこと。これが司馬遼太郎の小説『おお、大砲』に出てくる実話で、天誅組をその砲弾1発で蹴散らしたということです。砲弾よりその轟音に驚いて逃げたようです。
備前島は大川と寝屋川の合流点の中州で、京阪電車で京橋駅から天満橋駅に向かう際、橋を渡る手前で、今でも大阪城がよく見えます。大坂城の東にはビジネスパークの高層ビル群もよく見えますが、子供のころの1970年位まで、大坂城の東には砲兵工場跡地があり、太平洋戦争の米軍の大空襲を受けた広大な廃墟として残っていました。不発弾の処理などで残っていたのでしょうが、戦場の恐ろしい様子が垣間見れました。
豊臣秀長が徳川家康に「大坂城の弱点は南側だ」と語ったというエピソードは、同時代の基本史料に記録が確認されてますか?
実際には、大坂城の南側は上町台地の尾根づたいに続いており、のちに大坂冬の陣の際、真田信繁(幸村)が外縁に「真田丸」という馬出(うだし)を築いて徳川軍を苦しめた場所として知られていますが、秀長が家康にその弱点を教えたというのは史実のその結果から逆算して創作したNHKのドラマだけでの伏線なのでは?
たとえばドラマで茶々の親の市に向かって織田信秀が『男系子孫だけでは争いで滅びるかもしれない。女子を産まなければならぬ。女子であれば憐れみを示され,したたかに生き抜いて娘の息子,あるいは孫が天下を狙えるかもしれぬ。織田信 の字は消えても,秀 の字を残せるかもしれぬ』→伏線回収→秀頼 みたいにもできてしまいます。
大河ドラマの創作伏線は,すでにでている結果から簡単に作れますよね