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【京都れこめんど】「大衆100人に田中泯が怒鳴った」1984年 成蹊大学で・・・

by MOEPPP



00:00 ◆1◆吉祥寺へ行くのに、
小田急線の下北沢駅を使って井之頭線へ乗り換える。
小田急の下北沢駅は、このころ(1984)、戦後の焼跡、闇市の頃の作りを感じさせる、
荒く低い杜撰なつくりのコンクリートだけのホームだった。
また、戦後の闇市を思わせる小さな市場も駅のそばで営業されていた。

コンクリート色が主で、憂鬱さがいっぱいなのが、この駅の印象である。
これほど暗いのに変えようとする建築の方向性などなかった。
でも、それにアクセントが付けられた。
構内の新宿行きの後方に、井上陽水のレコード『バレリーナ』の新しいポスターが
貼られたのだ(1983年12月)。

古くざらざらとしたホームの壁の『バレリーナ』は、バレリーナがV字に脚をあげている。
レコードジャケットの小さなエロス。このポーズはバレエの世界をさげすんでいるように見え、
時代を超えシュールさを出しつづける絵画のようだった。

レコードはすでに聞いていた。だから「単純なカラフルいつまでもよろこんでいるバレリーナ」という孤独を表現した歌詞が、耳にひびいてくる。
「シェルビーズを あさみさん あゆみさん そーとね いまでもパールリングを ゆかりさん ゆみこさんも」『ビーズとパール』と、井上陽水の歌詞は、下北沢に住むありふれた女性にも呼びかけているようだ。

私が楽しんで見ているから、誰か気づいていっしょに見るかなと思うのだけど、こういった状況に参加してくる「東京人」ってのは、ほとんどいない。

02:25◆2◆吉祥寺駅から、本通りを歩く。
まだ、水田跡が全面に広がっていた時代で、成蹊大への国道7号の左右の田んぼは、
冬に向け枯れていて、大きなクルマの音が響いていた。学園まえの交通量は、この土の中に、
どれだけの生き物が残っているのだろうかと考えさせるものだった。

キャンパスに入ると、西南にある大きなケヤキの前を舞台とするのか、セットをしている最中だった。古いというより、壊れかけに見える、縦30センチ、横20センチの
安いスピーカーを、木の枝で、揺れるように釣っていた。

二人の裸の女性モデルは、感情のない蝋人形のように扱われていた。死体のオブジェとみなしているのだろうか。

髪は長く胸元まである。死人役の女性二人は、頭の上から、白いペンキをかけたように、
無残な形で「ドーラン」が塗りたくられていた。
都はるみの曲が、壊れかけのスピーカーから、ガンガンとビビリ、ビリビリ音が大きく流れつづけていた。
この音響は、声を出さない、汚らしい蝋人形にみえる裸の女性たちへ、残忍さを加味していた。
目をそむけたくなる光景だった。

まだ準備にかかりそうだったから、私は、学生課へ入って行き、成蹊大の就職案内を見ていた。

04:20 ◆3◆
ここ成蹊大は、寝屋川一中(1965)でバッテリーを組んだキャッチャー鶴本君の進学先だった。三年生のはじめ、寝屋川の大利でクルマにはねられ、
鶴本君は一学期が全休になった。一年八組では男子一番。二年も良かった。これだとこの学校では、だいたい現役で京大へゆく。

二年時、鶴本君とは、四条畷高で、バッテリーを組もうと予定を言っていた。
ところが、1967年12月、古い木造の二階、3年6組の生徒が、日本刀乱闘事件がおこした。

三木義造校長は、寝屋川市駅でなく、隣の駅の萱島に住む、一階の3年1組の私へ冤罪を作った。

三木義造校長は、IQ日本一をつづけ、豊中六中の入学のとき、湯川秀樹博士が、
電子顕微鏡8000万円をプレゼントし、著名人扱いの私へ、校長としての楽しみは、
生徒の成長にあると、朝礼でも言いつづけた。

萱島駅に接して、門真市がある。1966年門真のパチンコ屋そばに、ゲームセンターができた。
三木義造校長は、不良化防止に寝屋川一中の生徒は誰ひとり入らせないようと私に命じた。

1967年4月、新学期の朝礼では、IQ125しかない生徒なのに、京大の理系へ進学した。
IQ125での理系進学は無理なのに、冬は、貧しいから毛布をかぶって勉強をしたと言った。

こんな教育制度の下、娘の進学のためには、私が邪魔だと主張した、悪党の教育委員会の
小西恕一が登場してきた。娘のIQ110台だ。知能テストを家でも勉強させている。
なのに、どうしていつも低いのだと夫婦して、わめくらしい。

小西恕一は、私が日本刀を振ったことが認められると、心が落ち着いた。これで娘は大手前高校へ行ける。私は公立高への進学ができなくなった。

小西恕一の脅しだが、「娘がいたな。どうなるか分からんぞ」と両親に言った。私には妹がいた。母は、あんな人たちは何をするか分からないから、妹のために我慢してと言った。

三木義造校長と小西恕一教諭の画策で、私と鶴本君のバッテリーの夢は消えた。成蹊大の就職先は、サービス業の営業職が多い感じがしていた。

07:53 ◆4◆キャンパスを舞台とした田中泯のダンスが、はじまりを見せるようだった。

学生課から、出ると、男子学生と教職員による大衆100人ぐらいが、
暗さを増してゆく、大きなケヤキの前に、前にと集まっていた。

白いドーランをかけられた裸体。
私が目をそむけたくなる光景、女性たちのヘアー部もドーランが塗られ、マネキンどころではない。ところが大衆100人には、この裸のヘアー部が重要なのだろう。集まってきて凝視しているのだ。

田中泯はどこにいるのか。ざわつく大衆100人のおかげで、舞台の最初が見られないと思った。これも計算済みなのか? それだと、たった一人だが、私のような観客が、大変困って、失礼すぎるじゃないかと思った。

大衆100人から離れ、たけのある草むらが残る古い本館の北西へ向かうことにした。
ひとりの中背の若者が、茶色の格子のジャケットをきた案山子風の男にスポットライトを浴びせている。

大人しく明るい表情の若者に、「この方、田中泯さんですか?」と尋ねると、真面目な表情で「はい」と答えてくれた。

田中泯はキャンパスの地面にころがって、衣服を砂まみれにして、演舞を東側の草むらへ続けて行った。

09:45 ◆5◆草むらへと、表現をつづけてゆく田中泯だが、私が田中泯を見たのは、同志社(1977)の学生会館まえ(烏丸通。お寺の北)で二度、これで三度目になる。

同志社では、幅1メートルぐらいの石段が並ぶ、三段目ぐらいで、田中泯は『サモトラケのニケ』のような意味合いで、動きはみえないけど、呼吸をしている舞踏を続けていた。

田中泯の呼吸だが、私に語りかけてくる筋肉によるテクスチャー(texture)が在った。何層もの意味のある筋肉の動き、その呼吸するテクスチャーが私へ刺激をあたえてくれた。

女性を中心にした見学者は15人ほどいて、3メートルほどの道幅を考えると、これ以上の観客は無理な感じだった。
学生たちは沈黙を保っている。通りすがりにチラッと見てゆく同志社の学生たちを考慮すると、かなりの数になり、これは意味あるイベントに思えた。

私の関心は、衣服をつけたときの、田中泯にあった。
衣服を通して、見学者へ、話しかけてくるテクスチャーを表現ができるのだろうかと思った。

見物人は私だけなのだけど、成蹊大での田中泯がつくる、衣服を通したテクスチャーには、何層もの意味合いが表現されていた。変化してゆく意味の表現。それがないと、私が見続けることなどできない。

私が見た田中泯の舞踏の熱気だが、私へは外まで靄(もや)のようになり、つづいていた。

暗い帰り道、武蔵野八幡宮に灯りがあった。引き寄せられた酉の市。小さな灯りが、良い思い出のひとつに加わった。

10日ほど過ぎ、週刊誌(『平凡パンチ』1984)が、田中泯の公演を特集していた。私が帰ったあとも、大衆100人は、膨らみ、会場で暴徒となり、蝋人形のような裸の女性たちから離れなかったという。

暴徒となった大衆100人に「お前ら、もう帰れ!」と田中泯が怒鳴ったそうだ。

13:00◆短歌◆

■田中泯さん http://www.min-tanaka.com/ オフィシャルサイト
■上中えりなさん https://www.instagram.com/erina_kaminaka/#                    
           https://snd.sk/en/umelecky-subor-baletu-en
■Olga Chelpanovaさん https://www.instagram.com/olgathelpanova/#
■井神さゆりさん
■井上バレエ団   https://inoueballet.net/

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