2008年11月24日、
中野サンプラザ。
本来は入院中の身だった。
それでも彼は、
病院を抜け出し、
ステージに立った。
「4人揃わなければ
フォーリーブスじゃない」
そう周囲に訴え続けた
青山孝史の、
最後のツアーだった。
青山孝史(あおやま たかし、
旧名・青山孝、
1951年8月10日 – 2009年1月28日)。
日本の歌手・俳優・タレント。
男性アイドルグループ
「フォーリーブス」の
メンバーである。
愛称は、ター坊。
佐賀県佐賀市高木瀬町に
生まれた。
小学4年生からは、
神奈川県川崎市で育つ。
代々武士の家柄で、
戦前の実家には
刀や槍が残されていたという。
父・忠弘は、
少年志願兵として
海軍に入り、
呉市に配属された。
1945年8月6日、
広島市郊外で、
原爆の閃光を目にしている。
特攻隊員として出撃する前に、
終戦を迎えた。
戦後、大学に進学し、
そこで出会った女性と
学生結婚する。
それが、
青山の両親だった。
1967年、
結成半年後の
フォーリーブスに、
永田英二の後任として加入。
同グループは翌年、
「オリビアの調べ」で
デビューを果たす。
歌って踊るアイドルグループの
草分けとして、
一世を風靡した。
1970年から
7年連続で、
NHK紅白歌合戦に出場した。
ソロ活動は
決して多くはなかったが、
月刊平凡や
週刊セブンティーンといった
雑誌の人気投票では、
常にメンバー別トップを
記録し続けた。
雑誌の表紙や
グラビアでも、
一番大きく
扱われることが多かった。
1978年、
グループは解散。
24年の時を経て、
2002年に再結成を果たす。
このとき、
芸名を「青山孝」から
「青山孝史」に改めた。
2008年10月、
全国ツアーの最中、
肝臓がんが発覚する。
すぐに入院し、
抗がん剤治療を始めた。
メンバーへの告知は、
11月後半のことだった。
腹水が10キロ以上
たまることもある、
一進一退の病状だった。
青山の体調を案じた
メンバーたちは、
ツアーの中止を
考えたという。
しかし青山は、
「4人揃わなければ
フォーリーブスじゃない」と、
続行を強く訴えた。
11月24日、
中野サンプラザでの公演。
病院を抜け出し、
病名は伏せたまま、
「肝臓の病気が
酷くなった」と
ファンに伝えた。
以降もコンサートのたびに
病院を抜け出し、
2度、ステージに立つ。
2時間の公演のうち、
立てるのは
わずか30分ほどだった。
2009年1月16日、
「肝臓がん」であることを
公式に発表する。
1月19日には、
一時帰宅し、
10歳の長女の
誕生日を祝った。
元気になったら、
一緒にハワイへ行こう。
そう約束していた。
1月28日午前2時頃、
容体が急変する。
午前4時、吐血。
そして午前7時、
妻・めぐみさんと
長女に見守られながら、
青山孝史は
静かに息を引き取った。
57歳だった。
公式発表からわずか
12日後のことだった。
2月3日に通夜、
翌4日に葬儀・告別式が、
渋谷区西原の
代々幡斎場で
執り行われた。
フォーリーブスの
メンバー3人をはじめ、
郷ひろみ、豊川誕、
川崎麻世ら後輩たち、
橋幸夫、西城秀樹、
野口五郎ら
芸能関係者、
そしてファンなど、
3千人余りが参列した。
弔辞に立った江木俊夫は、
目を腫らしながら、
こう語った。
「ター坊の歌声が、
フォーリーブスの
歌声だった」
棺には、
妻子からの手紙や、
フォーリーブスの
レコードジャケット、
天国でも作曲ができるよう、
楽譜と鉛筆が
納められた。
好きだった酒と煙草だけは、
本人の希望により、
納められなかった。
2009年3月29日、
フォーリーブス
ラストコンサート。
青山の長女も、
バックダンサーとして
ステージに立った。
「父のように
元気をあげられる人を
目指して頑張ります」
彼女はそう語っている。
歌って踊るアイドルの
草分けとして、
時代を駆け抜けた青年は、
病床からステージへと
何度も抜け出しながら、
最後まで
仲間との約束を
守り抜いた。
その存在は今なお多くの人々の記憶に残り
続けている。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
病床を抜け出してまで、
仲間との約束を
守り抜いた男がいた。
あなたにとって、
フォーリーブスと
青山孝史さんの
一番の思い出は
何でしょうか。
このチャンネルでは、
実在の人々の歩みを、
これからも伝えていきます。
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