七十四歳の冬の夜、世田谷の自宅の風呂場で、渡哲也は湯船から立ち上がれなくなりました。右膝に力が入らず、石鹸の泡が残る床に膝をついたまま、五分間。声を出せば妻が来る、それだけは嫌だった――。静かに浴室のドアが開き、俊子さんは何も言わずに隣にしゃがみ、夫の背中を洗いはじめます。連れ添って四十九年、体を洗われたのは、その夜が初めてでした。そして渡哲也は、その夜、礼のひとつも言えませんでした。
背中に当たっていたのは、見慣れない薄緑色の布。数日後の朝、味噌汁を啜りながら何気なく尋ねた夫に、俊子さんは「三年ほど前から使っていました」と答えます。新しい布は肌を傷つけることがあるから、自分の体で洗って柔らかくしていたのだ、と。夫がいつか支えられる側になる日のために――。湯加減の四十二度、履き口を広げて置かれた靴下、錐で穴を足したベルト、三日で付いた階段の手すり。気づかないふりをしてきたものが、すべて一本の線で繋がった夜のことを、渡哲也が静かに語ります。
「お前より俺が先に死ぬに決まってるだろう」。かつて笑って返したその言葉が、いま怖くなっている――靴下も履けず、薬が何錠かも知らない男が、順番というものを考えはじめます。弱さを見せない生き方を教わってきた世代へ。喉まで出かかって、今日も「ああ」しか言えなかった、その五文字について。最後まで、どうかゆっくりとお付き合いください。
▼ チャプター
0:00 七十四歳の冬の夜
0:37 風呂場の床に落ちた意地
2:00 俳優として生きてきた
3:44 妻の温かい手
5:04 三年かけて育てた布
6:38 気づかないふりをした変化
11:26 夜中の心臓マッサージ
13:11 妻の腰痛と私の無力
14:48 守られていたのは私
17:30 もし妻がいなくなったら
19:20 妻の覚悟と石原さんの言葉
23:11 言えない「ありがとう」
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